とある画家のアトリエ

動物たちにストーリーを与える絵描きの活動記録

絵を買ってくださった方のご感想

昨日、ある方からメッセージをいただきましたので、ご紹介させて下さい。

ご本人の了承もいただきました。

かえるの絵の制作途中を掲載している時から、興味を持って下さった方がいました。仕上がりが近づいたころ、ぜひ我が家に迎えたいというお話をいただきました。

私としてはそれだけでもありがたいのに、続けて彼女はその理由を教えてくれました。

 

亡くなった旦那様に、眼差しが似ている。穏やかな眼差しが。このメールを書きながら、今も涙がボロボロこぼれるくらい泣いている、と。

 

正直言葉が出ませんでした。

 

自分がただただ一生懸命やったことが、知らないうちに誰かの心に触れ、少しだけ温めることができた。この日ほど、絵を描いていてよかったと思ったことはありません。

最後に彼女は、これからも描いてね。と言ってくれました。

名前を遺すことはなくても、私の絵から何かを感じて、思ってくれる人が確かにいる。

 

それなら、この気持ちを忘れずに、描き続けようと思いました。

うちの場合

20代前半から30代はじめにかけて、どういうわけか家庭に重いトラブルを持つ人ばかりが周りにいた。


うちといえばモラハラの父とそれに反するように子を溺愛する共依存の母がいて、機能不全傾向の家庭ではあったが、兄も私もなんとか道を外さず生きてこれたので、まだ傷が浅い方だと思っている。


「普通の家庭」「普通じゃない家庭」は人それぞれによるもので、これといった基本になるような尺度はないと思っているのだが、それを考えたときあるカウンセラーがブログか何かに書いていた言葉がよみがえる。それは「夫婦の仲がよければ子供はすくすく育つ」といったニュアンスのものだ。

 

確かに、私はキレまくって喧嘩ばかりしていた親を見て育ってきた。話し合いで解決しているところなど見た事がなかった。父は家族に対して聞く耳を持たず上から押さえつける人間だし、母は年がら年中父の愚痴を私に言っていたような気がする。それも私の脳内が脚色した記憶なのかもしれないが、そのおかげで世の男性はみんなそういうものだと思っていたのは確かだし、話し合いで解決できる夫に出会ったことがある種のカルチャーショックのようなものに感じた。

 

今までの経験があるからそのカウンセラーのコメントを見ると、なるほどそうかもしれないと思うのだ。もし母と父がお互いを気遣い合ったり褒めている記憶がたくさん残っていたら、子供の私は家庭に関して何も心配することはなかっただろし、子供だった自分は大人のように気を回さず、そういった気の遣い方をする必要もなかったと思う。私は子供の頃から負けん気だけは強かったので、父にも母にも飲まれることがなかったが、繊細で打たれ弱い子どもだったらどうなっていただろうかと思うと恐ろしい。

 

長年愚痴や悩みをよく聞かされていたわたしが思うのは、実際渦中にある時には相手の事を責めたくなるのもわかる。しかしその相手にも言い分があることを忘れてはいけないということ。特に家庭のこととなると、逃げられないのは子供だと感じている。解決方法を外に求めるのはあくまできっかけを探すことであり、それは本当の解決策ではないのではないだろうか。そのきっかけをもとに優先順位を組み立てていくと、自ずと選ぶ道は見えてくるような気がしている。

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鵜呑みにしない

なんだかふと思ったのだけど、健康法、食事法、占いとか宗教もしかり、他人が良いと言ったものが自分にとって必ずしも良いとは限らないのではないだろうか。


あの人が良いと言ったから良いのではなく、それの出処がどこなのか、信頼できる筋からのものなのか、副作用やどんな苦情があるのかを調べることも大事だと思う。


情報がただで手に入る時代だからこそ、自分の目で見極めるためにひと呼吸を置く余裕を持つ方が良いような気がする。違和感という直感を少しでも感じるのなら、周りに倣わなくても時に辞めるという選択も持っていて良いのではないだろうか。

誰がために

「相手を憐れみ必要以上に過保護になる人は、自分の問題解決ができていないために、自分の問題に直面することから逃げ、救済者の役割を演じようとしています。」
という物をFBで見かけた。その投稿をされた方は心理学に詳しく、特に子供の引きこもりなどを専門にサポートされている方だった。

 

私は心理学を学んではいないし、詳しいことはわからないけれど、その心理がなんとなく理解できた。なぜならそれはまさにうちの母やお世話になったとある人、20代前半の自分にすっぽり当てはまるなと感じたからだ。

確かに、人の心配をして構ってさえいれば、その間は自分の問題を見ずに済むし言い訳にもなる。その方が自分と向き合うより楽なのだ。それを指摘すると「でも」「だって」と返ってくる。「うんうん」とわかったふりをして聞いていない場合もある。かつての自分もそういうところがあった。

でもある時、心配はまずは自分に向けるものであって、人のことばかり世話を焼いたり気にしたりしているままでは大切なことは何も解決してないということに気がついた。
むしろそのゆがんだ親切心のようなものが「世話をしないといけない存在」を作ってしまうことにもなると実感している。

自分の経験や周りを見ていたからこそ、今は「まず自分からきちんとする」と思えるようになった。人のことをするその前に、自分がやるべきことをこなしてこその人助けだと思う。

 

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自問自答

目の前にある真実を見ようとせず、

自分の過ちを省みず、

自分が行うことは正しく、

それに従わないものはわかってないだ悪だと幻滅し、

さも自分の行いが絶対であり大義名分があるかのように振る舞う。

最近そういうものにとても違和感を感じている。

なぜなら何が正しくて何が間違っているかは、自分が立つ場所によってがらりと変わってしまうと知ってしまったからだ。

たとえば、自分が友人と喧嘩をしたとして、相手は相手の言い分があり、自分は自分の言い分があるようなものである。それを言い負かしたり自分の言い分を認めさせたところで、それが本当の正解なのか、解決になるのだろうかと感じる。

人というものはよくわからないもので、思い通りにならないものだろうと常々感じる。
だからこそ、偶然に自分と同じ風景を見ることができる相手を見つけたならそれを大切にしたいと思うし、その偶然に依存してはいけないとも思う。

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