とある画家のアトリエ

動物たちにストーリーを与える絵描きの活動記録

心にひそむもの

 誰に何をされたという愚痴は聞き慣れている方だが、中には言葉の奥の方に「私が嫌いな人をあなたにも嫌いになってほしいんだけど」という気持ちを忍ばせてくる場合がある。


もうワンランク巧妙なテクニックとして「あの人最近○○なんだよ、大丈夫かな?」と「心配を装って相手を下げる」というものがある。どちらも経験上、女性に多く見られる。

言われたところでリアクションはするが、私が話だけで相手を嫌いになるようなことは、まずない。でも誰かへの陰口で盛り上がり、仲間を作る人もいる。それをSNSで盛大にやっている光景を見ると、思わず目を覆いたくなる。

たとえそれが手っ取り早く人を囲い込むテクニックだとしても、私はもっと違う方法で人に共感してほしいと思った。

 

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呪いの言葉

実は母が先日から膝を痛めている。


それまで相当元気だったため、本人は安静を余儀なくされ、かなりショックのようだった。私としてはゆっくりでも歩けるのだし、入院するでもなく、ましてや死ぬほどの致命傷でもないのなら、自分のペースを変えて生活すればいいと思っている。
一般的な、という表現を出して比べるものでもないだろうが、嫁いだ娘から実家に連絡をする頻度とはどんなものだろうか。うちは自転車で15分のところに住んでいることもあり、私自身はあまり実家のことを心配していない。

 

しかし、母は違うようだ。

 

調子はどうだから始まり、具合が悪くなればすぐ病院へ行け、という電話を月に何度かしてくる。先日の膝を痛めた時にすら、調子が悪いところがあったら早く治しやというので、さすがにまずは自分の心配をしろと言った。その後もちょっとびっくりするようなことがあった。

 

親は子供の心配をするものだろう。
たとえば「子供の体調が悪いからこの先良くないことが起きるのではないか」という一見相手のことを考えているような思いや態度の裏には「あなたは病気になり、良くないことが起きる」という無意識の意味づけが行われているような気がする。言われ続けた方は、無意識のうちに自分は病気で、これから良くないことが起きると思い込むようになる。
行き過ぎた心配は今起きていない未来への憂慮であり、現時点で必要なものではないと思う。

 

本当に子の幸せを願うのなら、いっそ手を離すことも必要ではないだろうか。長年の習慣を変えることは難しいかもしれないが、それは自分自身を信頼し、また子を信頼することにもつながる気がしている。

 

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人が育つということ

先日、人を育てたり支援する職業の方から、できないことに対してなぜできないのかと問うより、できることを褒めた方が最終的にその人が伸びるという話を聞いた。

もちろん間違っていることは間違っていると伝えるのだが、その伝え方がポイントのようで、人はミスをしたくてしている訳ではないから、その時取るべきだった方法を子供に伝えるよう丁寧に伝えていくそうだ。

 

確かに感情で怒られる家で育った私としては、何がダメなのかがわからないのにミスだけを責められても、反発する気持ちが残るだけで本当の意味で自分を改めることができなかった。

 

社会に出てからは、幸運なことに理由もなく叱責されることもほとんどなく、間違えたときの対処法やなぜそれではいけないか?という理由などを教えてもらうことができた。大体が納得できる内容であることが多く、次第に同じ過ちは繰り返さないようになっていった。

 

歳を重ねていくと、学校の勉強のように答えがひとつだけではないものに出会う。これが正解というものを選び取ることは時に難しく、非情にならなければいけない場合もあるが、自分なりの正解を探し続け、進んでいくしかない。

 

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人を通して経験する課題

私のこれまでの経験上、人にタダでものを頼む人、もしくは値切ってなんとかしてもらおうという人や友達だからなどと言いプライベートなラインを超えてくる人は、自分の都合の悪くなることは見ないふりをするので信用ならない気がしている。

 

「私はしてあげたのにあの人はしてくれない」

「友達だから安くしてもらえると思ったのに」

「知り合いだからお願いしたのに」

 

理由はどうであれ、最終的に選んだのはその人である。嫌ならその選択をしなければ良いだけだが、自分の都合のいいように解釈する人たちがそう思うことはなく、まず相手の中に理由を探すことが多いように思われる。上記のような言葉は真面目に仕事をしている人たちに無礼だと思うし、見返りを期待するうらめしい言葉の裏にその相手をコントロールしようという意図が見えてしまう気がする。

 

昔からそういう人に好かれてしまう傾向がある。なんとかしてくれると思われているのかもしれない。言いやすいのかもしれない。わたしが人との線引きを曖昧にしているのかもしれない。しかしそういう人と出会うたび、ものづくりを仕事にすることの意味を考え直したり、これからの道を改めるきっかけととらえているので、その人たちを責める気はない。

むしろその時はありがたく勉強させてもらえたと思い、そのあとは彼らをただ見えない存在にするだけだ。

先へ行く人たち

イオニアと呼ばれる人々の多くは、自分が長年かけて会得した技術や知識をあとに続く人たちに伝える活動をしている。彼らはよいものをみんなで分かちあい、さらに発展させることを目指しているように感じる。

 

ある自然農法の農家の方が書いた文章のなかに

 

「自分のノウハウであっても、人が使えばその人流のものになる」

 

という趣旨のことが書いてあり、非常に共感した。


人が自分の真似をしたとしても、苦労して得たものが盗まれたとか名誉を傷つけられたなどとは思わないのだろう。


自分のプライドや第一人者であるという証明よりも、自分のやったことが世に広まっていくことが、何よりも彼らにとって名誉なことなのかもしれない。