とある画家のアトリエ

動物たちにストーリーを与える絵描きの活動記録

わたしとあなた

共感力の高い人がいる。

そういう人は人の気持ちによく気がつく優しい人が多いと思うのだが、それが行き過ぎると自分と相手の区別がつかなくなり、人のことを自分のことのように感じ苦しむことになるような気がする。

というのも、実際に二十代の頃の私は行き過ぎた共感力のアンテナを無意識に張っていたようで、相手の感情が自分のことのようにダイレクトに流れ込み、その人自身のように心が動きすぎて寝込んだりした時期があったからだ。周りを見ていても、モノづくりをする人は創作のインスピレーションをさまざまなところからキャッチするためか、その力が高い人が多いと感じる。

ある時これでは身が持たないと、相手と自分の感情を切り離すことを試みた。それは人の感情が重なりそうになる時「これは人のものであって自分のものではない」と強く思うようにしたことだ。その人の話を音声としてだけ聞くようにもした。そんなことを続けていくうちに、他人と自分の感情の区別ができるようになっていき、受け取るものと受け取らないものが明確にわかるようになっていった。

 

人に共感し、無条件で何かしたいと思う気持ちになれることは素晴らしいことだと思う。しかし必要以上に気持ちを重ね過ぎて人との境界線を超えてしまったり、自分の体調を悪くしたところで事態は好転しない。お互いの適度な距離を探しながら、本当の意味で良い付き合いができればと思う。

 

選択の自由

人には選択の自由があるらしい、と聞いた。

 

この選択の自由というものに対しては、神様でも入り込めない領域だそうだ。神様と呼ばれる存在ですら、人間の意思に入り込み、思うがままに操ることはできないという。私にはこれだと思う経験も知識もないので、その話が本当なのかはよくわからない。

 

ただ、この話を聞くと思い出すことがある。両親は某宗教の信者であり、私は物心つく前から理由もわからずやらされていることに違和感があった。その宗教の教えだけが正解で、他は間違っている、というような考え方の父にどうしても馴染めず、中学生のころにそういった集まりに行きたくないという意思を伝えた。

このことは、子供ながらに「私だけが正しく他は間違っている。」という思想がおかしいのではないかと思い始めるきっかけになった。

 

他にも、社会人になってからも変な噂を立てられたり、SNSでもありもしない話を作られ爪弾きにされたことを思い出す。その時は悲しみを通り越して怒り狂ったわけだが、しばらくしてから思ったことがある。怒り狂ったということこそが「私だけが正しく他は間違っている。」という、子供のことから嫌悪していた考えにはまってしまっていたのではないだろうか、と。

 

どれだけこちらが真実を知っていてそれを主張したとしても、周りがどう判断するかはわからない。主張したことでこちらがおかしいと思われることだってあるだろう。その逆で、もしかしたらこちらが与えられた情報を鵜呑みにし、まんまとだまされおかしな方向を向いて、真実を見ることができなくなっていることだってあるかもしれない。でもそれは、たとえ誰かの嘘やコントロールが混じっていたとしても、本人たちの意思で判断をしたことなら、良いも悪いもないのだと思う。それこそ、その人の自由なのではないだろうか。

 

そんなことを考えていると、人を責めることや正論を振りかざすことは減ってきた。
何が本当で何が嘘なのか、これでいいのか間違っているのかと迷うこともあるけれど、常に自分の選択を振り返り、大声で自分のやったことを人に言えるような自分であることぐらいしか、今の自分にはできないなと思う。

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心にひそむもの

 誰に何をされたという愚痴は聞き慣れている方だが、中には言葉の奥の方に「私が嫌いな人をあなたにも嫌いになってほしいんだけど」という気持ちを忍ばせてくる場合がある。


もうワンランク巧妙なテクニックとして「あの人最近○○なんだよ、大丈夫かな?」と「心配を装って相手を下げる」というものがある。どちらも経験上、女性に多く見られる。

言われたところでリアクションはするが、私が話だけで相手を嫌いになるようなことは、まずない。でも誰かへの陰口で盛り上がり、仲間を作る人もいる。それをSNSで盛大にやっている光景を見ると、思わず目を覆いたくなる。

たとえそれが手っ取り早く人を囲い込むテクニックだとしても、私はもっと違う方法で人に共感してほしいと思った。

 

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呪いの言葉

実は母が先日から膝を痛めている。


それまで相当元気だったため、本人は安静を余儀なくされ、かなりショックのようだった。私としてはゆっくりでも歩けるのだし、入院するでもなく、ましてや死ぬほどの致命傷でもないのなら、自分のペースを変えて生活すればいいと思っている。
一般的な、という表現を出して比べるものでもないだろうが、嫁いだ娘から実家に連絡をする頻度とはどんなものだろうか。うちは自転車で15分のところに住んでいることもあり、私自身はあまり実家のことを心配していない。

 

しかし、母は違うようだ。

 

調子はどうだから始まり、具合が悪くなればすぐ病院へ行け、という電話を月に何度かしてくる。先日の膝を痛めた時にすら、調子が悪いところがあったら早く治しやというので、さすがにまずは自分の心配をしろと言った。その後もちょっとびっくりするようなことがあった。

 

親は子供の心配をするものだろう。
たとえば「子供の体調が悪いからこの先良くないことが起きるのではないか」という一見相手のことを考えているような思いや態度の裏には「あなたは病気になり、良くないことが起きる」という無意識の意味づけが行われているような気がする。言われ続けた方は、無意識のうちに自分は病気で、これから良くないことが起きると思い込むようになる。
行き過ぎた心配は今起きていない未来への憂慮であり、現時点で必要なものではないと思う。

 

本当に子の幸せを願うのなら、いっそ手を離すことも必要ではないだろうか。長年の習慣を変えることは難しいかもしれないが、それは自分自身を信頼し、また子を信頼することにもつながる気がしている。

 

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人が育つということ

先日、人を育てたり支援する職業の方から、できないことに対してなぜできないのかと問うより、できることを褒めた方が最終的にその人が伸びるという話を聞いた。

もちろん間違っていることは間違っていると伝えるのだが、その伝え方がポイントのようで、人はミスをしたくてしている訳ではないから、その時取るべきだった方法を子供に伝えるよう丁寧に伝えていくそうだ。

 

確かに感情で怒られる家で育った私としては、何がダメなのかがわからないのにミスだけを責められても、反発する気持ちが残るだけで本当の意味で自分を改めることができなかった。

 

社会に出てからは、幸運なことに理由もなく叱責されることもほとんどなく、間違えたときの対処法やなぜそれではいけないか?という理由などを教えてもらうことができた。大体が納得できる内容であることが多く、次第に同じ過ちは繰り返さないようになっていった。

 

歳を重ねていくと、学校の勉強のように答えがひとつだけではないものに出会う。これが正解というものを選び取ることは時に難しく、非情にならなければいけない場合もあるが、自分なりの正解を探し続け、進んでいくしかない。

 

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