人が育つということ
先日、人を育てたり支援する職業の方から、できないことに対してなぜできないのかと問うより、できることを褒めた方が最終的にその人が伸びるという話を聞いた。
もちろん間違っていることは間違っていると伝えるのだが、その伝え方がポイントのようで、人はミスをしたくてしている訳ではないから、その時取るべきだった方法を子供に伝えるよう丁寧に伝えていくそうだ。
確かに感情で怒られる家で育った私としては、何がダメなのかがわからないのにミスだけを責められても、反発する気持ちが残るだけで本当の意味で自分を改めることができなかった。
社会に出てからは、幸運なことに理由もなく叱責されることもほとんどなく、間違えたときの対処法やなぜそれではいけないか?という理由などを教えてもらうことができた。大体が納得できる内容であることが多く、次第に同じ過ちは繰り返さないようになっていった。
歳を重ねていくと、学校の勉強のように答えがひとつだけではないものに出会う。これが正解というものを選び取ることは時に難しく、非情にならなければいけない場合もあるが、自分なりの正解を探し続け、進んでいくしかない。
人を通して経験する課題
私のこれまでの経験上、人にタダでものを頼む人、もしくは値切ってなんとかしてもらおうという人や友達だからなどと言いプライベートなラインを超えてくる人は、自分の都合の悪くなることは見ないふりをするので信用ならない気がしている。
「私はしてあげたのにあの人はしてくれない」
「友達だから安くしてもらえると思ったのに」
「知り合いだからお願いしたのに」
理由はどうであれ、最終的に選んだのはその人である。嫌ならその選択をしなければ良いだけだが、自分の都合のいいように解釈する人たちがそう思うことはなく、まず相手の中に理由を探すことが多いように思われる。上記のような言葉は真面目に仕事をしている人たちに無礼だと思うし、見返りを期待するうらめしい言葉の裏にその相手をコントロールしようという意図が見えてしまう気がする。
昔からそういう人に好かれてしまう傾向がある。なんとかしてくれると思われているのかもしれない。言いやすいのかもしれない。わたしが人との線引きを曖昧にしているのかもしれない。しかしそういう人と出会うたび、ものづくりを仕事にすることの意味を考え直したり、これからの道を改めるきっかけととらえているので、その人たちを責める気はない。
むしろその時はありがたく勉強させてもらえたと思い、そのあとは彼らをただ見えない存在にするだけだ。
先へ行く人たち
パイオニアと呼ばれる人々の多くは、自分が長年かけて会得した技術や知識をあとに続く人たちに伝える活動をしている。彼らはよいものをみんなで分かちあい、さらに発展させることを目指しているように感じる。
ある自然農法の農家の方が書いた文章のなかに
「自分のノウハウであっても、人が使えばその人流のものになる」
という趣旨のことが書いてあり、非常に共感した。
人が自分の真似をしたとしても、苦労して得たものが盗まれたとか名誉を傷つけられたなどとは思わないのだろう。
自分のプライドや第一人者であるという証明よりも、自分のやったことが世に広まっていくことが、何よりも彼らにとって名誉なことなのかもしれない。
夢との付き合い方
結局、今はその夢を選んでいる。今までの経験は、本当に進むべき道はこちらではないと確認するためのものだったように思う。
人の振りを見て我が振りを確認する
親切にされることはとてもありがたいけれど、度が過ぎているように感じる時がある。それには違和感というよりむしろ嫌悪感に近いもののように思う。なぜだろうと考えていたけれど、ある人の言葉で合点がいった。
それは「支配する人は、支配される人をつくる」というもの。
よく誰かのことで困っているという話を聞いたりするが、その誰かが問題ではない場合が多い。自分が深く関わりすぎることで問題にしていることがあるのだ。必要以上に人に干渉する人の多くは、放っておく、任せるということができない。これは見方を変えればその人を信用していないということや、自分の言うことを聞かせようとする支配の表れではないかとも感じる。
知人に「人の人生に口出しするということは、責任を持たなあかん。その人の人生を変える可能性があるからや。それができるか?」と言われた時から、できるだけ人と自分との境界線を意識するようになった。
人のことは冷静に見えてしまうし、口を挟みたくなることもある。そんな時は責任を持たず口を出していないか、心配するふりをして誰かを支配しようとはしていないかを確認するようにしている。
付かず離れずお互いの距離を守りながら過ごせる関係でありたいと思う。