とある画家のアトリエ

動物たちにストーリーを与える絵描きの活動記録

人を通して経験する課題

私のこれまでの経験上、人にタダでものを頼む人、もしくは値切ってなんとかしてもらおうという人や友達だからなどと言いプライベートなラインを超えてくる人は、自分の都合の悪くなることは見ないふりをするので信用ならない気がしている。

 

「私はしてあげたのにあの人はしてくれない」

「友達だから安くしてもらえると思ったのに」

「知り合いだからお願いしたのに」

 

理由はどうであれ、最終的に選んだのはその人である。嫌ならその選択をしなければ良いだけだが、自分の都合のいいように解釈する人たちがそう思うことはなく、まず相手の中に理由を探すことが多いように思われる。上記のような言葉は真面目に仕事をしている人たちに無礼だと思うし、見返りを期待するうらめしい言葉の裏にその相手をコントロールしようという意図が見えてしまう気がする。

 

昔からそういう人に好かれてしまう傾向がある。なんとかしてくれると思われているのかもしれない。言いやすいのかもしれない。わたしが人との線引きを曖昧にしているのかもしれない。しかしそういう人と出会うたび、ものづくりを仕事にすることの意味を考え直したり、これからの道を改めるきっかけととらえているので、その人たちを責める気はない。

むしろその時はありがたく勉強させてもらえたと思い、そのあとは彼らをただ見えない存在にするだけだ。

先へ行く人たち

イオニアと呼ばれる人々の多くは、自分が長年かけて会得した技術や知識をあとに続く人たちに伝える活動をしている。彼らはよいものをみんなで分かちあい、さらに発展させることを目指しているように感じる。

 

ある自然農法の農家の方が書いた文章のなかに

 

「自分のノウハウであっても、人が使えばその人流のものになる」

 

という趣旨のことが書いてあり、非常に共感した。


人が自分の真似をしたとしても、苦労して得たものが盗まれたとか名誉を傷つけられたなどとは思わないのだろう。


自分のプライドや第一人者であるという証明よりも、自分のやったことが世に広まっていくことが、何よりも彼らにとって名誉なことなのかもしれない。

夢との付き合い方

イラストの専門学校を出て、デザインなどは社会に出てから仕事をするなかで学んできた。パート、バイト、派遣、正社員、契約社員と形態は違ってもずっと作る仕事に携わってきたけれど、やっぱり「絵」に関することを考えるのは楽しい。そう思えるのは社会に出てからたくさん経験したからだと思う。
 
幼い頃に一番なりたかった職業が画家で、小学校一年生の時にはもう文集に将来の夢を画家と書いてある。しかし、いつの間にか画家は儲からない職業というイメージがついてしまい、大人になって一番避けた職業が画家となってしまった。幼さゆえに夢を見て、大人になって現実を知る。しかし夢を諦めきれず、OL時代もずっと絵は描くことを続けていた。
結局、今はその夢を選んでいる。今までの経験は、本当に進むべき道はこちらではないと確認するためのものだったように思う。
 
自分には向いていないと心の奥に封印していることが、実は一番自分に必要で、向いていることなのかもしれない。

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人の振りを見て我が振りを確認する

親切にされることはとてもありがたいけれど、度が過ぎているように感じる時がある。それには違和感というよりむしろ嫌悪感に近いもののように思う。なぜだろうと考えていたけれど、ある人の言葉で合点がいった。

 

それは「支配する人は、支配される人をつくる」というもの。

 

よく誰かのことで困っているという話を聞いたりするが、その誰かが問題ではない場合が多い。自分が深く関わりすぎることで問題にしていることがあるのだ。必要以上に人に干渉する人の多くは、放っておく、任せるということができない。これは見方を変えればその人を信用していないということや、自分の言うことを聞かせようとする支配の表れではないかとも感じる。

 

知人に「人の人生に口出しするということは、責任を持たなあかん。その人の人生を変える可能性があるからや。それができるか?」と言われた時から、できるだけ人と自分との境界線を意識するようになった。

 

人のことは冷静に見えてしまうし、口を挟みたくなることもある。そんな時は責任を持たず口を出していないか、心配するふりをして誰かを支配しようとはしていないかを確認するようにしている。

 

付かず離れずお互いの距離を守りながら過ごせる関係でありたいと思う。

 

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日常

私は都会と田舎の間のようなところに住んでいる。山も海も美術館もショッピングモールも、車を飛ばせばものの2,30分で辿り着いてしまう。
なかでもお気に入りの場所は歩いて5分くらいのところにある神社の裏に広がる森だ。そこへは時間があれがば行くようにしていて、自分にとってのエネルギーチャージの場所だと感じている。

 

今朝は少し早い時間に廣田の森へ出かけた。平日の朝とあって、神社に訪れる人はまばらだ。

 


一通り参拝を済ませたあと、神社の横の小さな石段を登り森のなかへ入っていく。見慣れているはずの道も、少し時間が早いだけでいつもと違った表情を見せてくれる。周りにある木々を、太陽がいつもと違った角度で照らすものだから、なんだか別世界に迷い込んでしまったのかと思った。

その光景を写真に収めたいと思ったけれど、ちょうど電池がなくなってしまった。しまった、と思ったが、これは心にしまっておけということかと自分に言い聞かせる。

 


それにしても、自然はいつも文句を言わずにすべてを受けいれ、元気を分けてくれている気がする。
自然の気をいっぱいに浴びて、またここに来ることをひっそりと心のなかで宣言した。

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