とある画家のアトリエ

動物たちにストーリーを与える絵描きの活動記録

これからのこと

子供の頃から嫌いなものは徹底的に嫌いで受け付けられないという気性の荒さを持っていたけれど、集団生活の中でそれを誤魔化して生きる術を知った。

しかし、生来の性格はそう簡単に変わることはなかった。

そして数日前、ある決断をした。

それは好き嫌いの感情を我慢しないということ。

お金を稼ぐためには、自分を曲げなければいけない時があるとは思っていた。しかしそれに耐えられなくなっていった。「お金になることは無理してでも丸く収めて進めよう。でないと生活していけない」そう自分に保険をかけてやってきたことが、逆に自分の首を絞めていた。

これからは自分の気持ちを我慢しない分、自分の好きなことをとことん突き詰めることに力を注ぐことにする。そのための苦労なら受け入れようと思う。

やっぱり、絵を描いて死んでいきたいのだ。

 

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12月の展示予定

12月に入りましたので、展示三昧が始まります。
まずは一発目。東京ドラードギャラリーさんで開催される第6回 創作表現者展に参加いたします。100名を超える作家が集まる展示となりますので、ぜひお気に入りの一枚を見つけにいらしてください。

第6回 創作表現
2016年12月9日(金)〜12月18日(日) ※12月14日水曜定休
12:00〜20:00 最終日は19:00まで
初日12月9日(金)の20:00からOPENING交流パーティー開催

 

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続いて二発目。

こちら8th ART&CRAFT FAIRでは、ポストカードサイズや、手のひらに収まるような小作品を出展予定です。

8th ART&CRAFT FAIR

2016年12月13日(火)〜12月18日(日) pm12:00〜7:00 最終日4:00迄
ソーホー・アート・ギャラリー
〒543-0071
大阪市天王寺区生玉町9-18
地下鉄谷町線「谷町9丁目駅」3番出口西へ徒歩約1分

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最後になりましたが、カフェ チャオッペさんで14日より来年1月いっぱいを予定した個展が始まります。会期中の12月18日はチャオッペさん10周年となっており、その時期に個展も合わせいただくことなりました。
この日はとってもお得な日になっております。

〒530-0021
大阪市旭区清水5-12-12
カフェ チャオッペ

火〜金 11:00〜19:00 日・月・祝 8:00〜19:00 土曜定休

大阪市営地下鉄今里筋線 「清水」 駅から徒歩3分

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 それではみなさま、どうぞよろしくお願いいたします。
 

 

 

強制的に自分を見つめてみる。

ちょっとここ数ヶ月、停滞していたがだいぶ復活してきたので、ブログもちょくちょく更新していこうと思う。
停滞していた原因はよくわかっている。まああまり大きな声では言えない。正直こんなことが起こるのかという感じだ。
今まで自分の心が素直に喜ぶことを選んでやってきたし、自分自身には優しくしてきた方だと思う。全ての選択は自己責任として生きるようにしてから、誰かのせいにすることはなくなった。ずーっと周りにグチグチ言って変わらない人に嫌悪感すら抱いている。「なんでそんなに文句言うのに変えないの?」と。

今まで安定とは無縁の人生だったので、変化することに恐れはない。むしろ変化はデフォルト、くらいのものだ。でもこの1~2ヶ月、これからやっていきたいことは明確にあるのに、自分の思うように動けない、考えてもわからない、恐れとも違う得体の知れないものがどんよりと足を引っ張っているような気分が続いていた。
友人の誘いがきっかけでようやくわかりかけてきたことがある。それは自分だけでなんとかしたいという意識が強すぎるのか、知らぬ間に自分へのハードルを高く設定しすぎていたかもしれないということ。
よく0と1は違うとか、やらないよりやることのほうが大事だという話を聞く。それはもちろんそうだと思うが、今の自分はもう0の状態ではないということもあって、その次を高すぎる位置で設定し、自分に課していた気がする。変わらないで文句ばかり言っている人への嫌悪感が、変われない自分に向き、それが苛立ちとなっていたような気がする。
それがようやく頭と心で納得できたことで、思考の癖が少し変わってきた。この1〜2ヶ月はまさに自分で自分の首を絞めていたようだ。0の次は1、1の次は2、その次は3と、身の丈にあったことを少しずつやるというように気持ちを入れ替えるとしよう。

 

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ぶっちゃける、その先に何がある?

「これからの人生は自分のために生きる」

 
そう語った彼女とは数年前に仕事を教えてもらったことが縁で、職場が離れた今も定期的に会う中だ。今までずっと付かず離れずの距離を保ち、お互いの込み入った話も幾度となく話してきた、血のつながりはないが身内のような存在だ。

彼女の今まで経験してきた計り知れない痛みや辛さは知っていたし、何度も口を挟みそうになったことはあったけれど、できるだけ傍観するように努めてきた。なぜなら、人の経験を奪うことは人の成長を奪うことだと思っているからだ。


わたしの周りに集まる人はなぜか心に傷を持った方が多く、そのほとんどの人が傷ついたままで、新しい一歩を踏み出せない人だ

理由は人それぞれだが、人は自分を何かから守るため歩みを止めているように見える。まれに無意識にそうしている場合もあるのだけれど。

 

彼女の傷はその中でも特に深いものだけど、彼女の底に秘める強さと優しさを知っていたから、いつかまた歩き出してくれることを願い、信じたいと思っていた。だから、今日にいたるまでただただ見てきた。

先日食事をした時に、彼女は冒頭の言葉を何度も繰り返していた。それは彼女が抱えていた荷物をこれから手放すための決意の表れだったのだと思う。

自分ことではないのに、わたしの心のなかにしまわれていた氷がひとつ、ゆっくり溶けていくような気がした。人が自分の人生を生きようとする姿は、とても美しいし尊いことだと思う。

 

ぶっちゃけられ癖

昔からなぜか人からぶっちゃけられることがよくあり、ほぼ初対面でも過去の辛い出来事を告白されてきた。号泣されたこともある。ちなみに自分から話を聞くと言わないようにしている。

 

昔から人の体験を自分に起きたことのように感じる癖があり、寝込んだこともある。正直ずっとしんどかった。でも今は他人に起きた物語、という風に割り切って聞けるようになってきた。
過去の痛みを話せる人は、まだ大丈夫というか、元気になる途中だったり、その兆しがあることが多い。まずいと思うのは、その時の気持ちにがっちりと鍵をかけ封じ込めている人だと感じる。そうするうちに、普段の自分の感情もマヒしてしてくるようだ。


私は専門家でないのでよくわからないが、言葉にして発することは、その時の気持ちを成仏させることのような気がする。というのも、ぶっちゃけた人たちは、私が何も言わなくてもかなりの確率ですっきりした表情をしていたからだ。ということは、結局のところ誰かに癒してもらうというより、みんな自分で自分を元気にしているのではと思った。


私は生きているうちにできるだけ多くの体験をしたいと思っている。それが人を作り、作品を作っていくと思うからだ。

自分でできない体験を聞かせてもらえるのは、私にとって重要なことなのかもしれない。