とある画家のアトリエ

動物たちにストーリーを与える絵描きの活動記録

ぶっちゃける、その先に何がある?

「これからの人生は自分のために生きる」

 
そう語った彼女とは数年前に仕事を教えてもらったことが縁で、職場が離れた今も定期的に会う中だ。今までずっと付かず離れずの距離を保ち、お互いの込み入った話も幾度となく話してきた、血のつながりはないが身内のような存在だ。

彼女の今まで経験してきた計り知れない痛みや辛さは知っていたし、何度も口を挟みそうになったことはあったけれど、できるだけ傍観するように努めてきた。なぜなら、人の経験を奪うことは人の成長を奪うことだと思っているからだ。


わたしの周りに集まる人はなぜか心に傷を持った方が多く、そのほとんどの人が傷ついたままで、新しい一歩を踏み出せない人だ

理由は人それぞれだが、人は自分を何かから守るため歩みを止めているように見える。まれに無意識にそうしている場合もあるのだけれど。

 

彼女の傷はその中でも特に深いものだけど、彼女の底に秘める強さと優しさを知っていたから、いつかまた歩き出してくれることを願い、信じたいと思っていた。だから、今日にいたるまでただただ見てきた。

先日食事をした時に、彼女は冒頭の言葉を何度も繰り返していた。それは彼女が抱えていた荷物をこれから手放すための決意の表れだったのだと思う。

自分ことではないのに、わたしの心のなかにしまわれていた氷がひとつ、ゆっくり溶けていくような気がした。人が自分の人生を生きようとする姿は、とても美しいし尊いことだと思う。

 

ぶっちゃけられ癖

昔からなぜか人からぶっちゃけられることがよくあり、ほぼ初対面でも過去の辛い出来事を告白されてきた。号泣されたこともある。ちなみに自分から話を聞くと言わないようにしている。

 

昔から人の体験を自分に起きたことのように感じる癖があり、寝込んだこともある。正直ずっとしんどかった。でも今は他人に起きた物語、という風に割り切って聞けるようになってきた。
過去の痛みを話せる人は、まだ大丈夫というか、元気になる途中だったり、その兆しがあることが多い。まずいと思うのは、その時の気持ちにがっちりと鍵をかけ封じ込めている人だと感じる。そうするうちに、普段の自分の感情もマヒしてしてくるようだ。


私は専門家でないのでよくわからないが、言葉にして発することは、その時の気持ちを成仏させることのような気がする。というのも、ぶっちゃけた人たちは、私が何も言わなくてもかなりの確率ですっきりした表情をしていたからだ。ということは、結局のところ誰かに癒してもらうというより、みんな自分で自分を元気にしているのではと思った。


私は生きているうちにできるだけ多くの体験をしたいと思っている。それが人を作り、作品を作っていくと思うからだ。

自分でできない体験を聞かせてもらえるのは、私にとって重要なことなのかもしれない。

わたしのなかの裏テーマ

最近話題に上がった話。

 

お遍路さんのコースは、四国を一周するようぐるりと囲むように配されているという。ある作家は輪廻転生を描くため、水のイメージを取り入れた絵を描かれた。また別の方から、ある国では数百年続いた伝統が壊され、途絶えてしまったというものを聞いた。この三つの話を聞き、前々から気になっていた言葉が浮かんだ。

 

それは「循環」だ。

 

わかりやすいのは植物だろうか。植物は種が土に落ち、それが芽を出し、やがて葉や実をつけ、いつか土に還ってゆく。そしてそれはまた新しいいのちとなり成長していく。それは昔から続いてきたとても自然なサイクルなのだと思う。これは動物や水にも言えることだろうし、お金もうまく循環させたいと思う。伝統や文化など形のないものも当てはまると思う。

目の前に当たり前のように存在するサイクルを、滞らせてはいけないような気がする。


循環、それは私にとっての裏テーマだったりもする。

絵を描くことはどう役に立つか

わたしはひとに教わったり教本のようなものを読むのは好きじゃないが「絵が描けない人が上手くなる本(仮)」を数年前に手に取った。一から学びたいというよりは復習気分で手に取ったのだが。
 
分厚い本の中でひとつだけ覚えていることがある。それは、
 
「人間は学習したことを別の方面で活かすことができる。
絵を描くことで養われるものを見る力は、物事をさまざまな角度から見ることができるようになる」
 
ということだ。なるほどそうかもしれないと思った。

大人になったいまだから思うのだけど、私は極端な思考の親の元に育てられたと思う。溺愛するようになんでも許されたかと思うと、何が原因かわからないのにキレられたりということがよくあった。地雷がわからない、と言った感じだ。そうやって混乱しながらも、絵を描くことだけは続けていた。子供の頃は友人たちとも遊びに行かず空想する一人の世界を持っていたのが、わたしという個人の考えを育て守ることができたのかもしれない。

学校、家という狭い空間から社会に出て、いろんな年齢の方と知り合ってひとの多様性を知り、そのひとたちが何を抱えていたのかも知ることができた。あ、そうか、こういうパターンもあるのかと気づくことができたのは、子供の頃親に向けていた疑問や理不尽だと感じていた思いを解きほぐすことにつながっていったような気がする。

絵を描くことは自分の天職であると思うと同時に、大切なことを教えてくれたのだと思う。

大難は小難を避ける

「大難は小難を避けることがある」

 

数年前、ある人に言われた言葉だ。

 

小さい失敗をすることで、これじゃまずいと方向転換し、これから起きるであろう大きな失敗を避けるよう動ける、ということがあるらしい。だからあまり人の人生にやる前からあれこれ口を出さないほうがいい、人の人生に口を出すということは責任がついて回るからと言われた。

 

確かにそういうこともあるだろうと思い、私は人のやることに対して進んで口を出すことはしないようにしている。私自身があれこれ言われたくないからというのもある。

 

別の人からは、人は教えられてすぐ実行できるタイプと、何度も頭を打って覚えるタイプがいると言われた。周りの人は明らかに後者のタイプが多い。もちろん私も含まれている。ちなみこういう人たちはなんだかんだ言って結構タフであるので、打たれてもしばらくすると復活することが多い。

適度な距離で温かく見守る。助けを求められたら応えるけど、自分から人の経験を奪うことはしない。勝手かもしれないが、それはその人がまた前を向けると信じたいからだ。

 

経験している最中は辛く苦しいだろうけど、いつかまっすぐに振り返ることができたなら、それは何ものにも耐え難い財産になると思う。